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道徳的価値を持つ動機について - はしがき -

十年ほど前―。

自分の正しいと信じる行動をとる。そして、間違いだと思う行為はしない。そのように生きていたいし、そう生きるべきだと思う。だが、自分の信じている"正しさ"が本当に正しいとは限らない。それを強く感じると、何が正しいのか分からなくなってしまう。そんな時に私はよくこう思っていた。"何故、自分が正しいと信じた行動で、他人が傷つかねばならないのか(何故、自分が他人を傷つけてしまうのか)"と。
そこには、自分のために他人が傷つくことは間違っている、という前提が無意識のうちにあるように思える。これはどこから来たものなのだろうか。今の自分には、それはわからない。だが、"自分のために他人が傷つくことは間違っている"ということは、私が正しいと信じて心の内に持つもの、言いかえれば"信念"の中に確かに組み込まれている。それが確実に実行されていると断言することはできない。だが、心の中には正しい事として確実に存在している。

人間は自分の安全や幸福を求めて生きようとする。これは真実のように思える。だが、それらを犠牲にしても、"正しいと信じる事"のために行動する人間もいる。先にも言ったように、その"正しさ"が間違っていないという確証はない。それでも、正しい事のために自分の安全や幸福を犠牲にする者がいるのである。
自分の信じる正しさに従う。それが自分にとって最高の幸福であるという見方も、確かにできる。さらに、自分が正しいと信じた行動をとる人間は幸福だということも、実際に言える。だが、本当の意味で、正しいと信じる事から出た行動は、そんな幸福を目的とはしていない。つまり、幸福を得るために正しい事に従うわけではない。正しい事は幸福を生むとしても、幸福とは違うものであるような気がしてならない。

自分が正しいと信じる信念を持つ

これは人間が善き人であるために、さらに、その行為が善き行為であるために必要なものだと思う。ここでの善き行為とは道徳的価値を持つ行為の意味であるが、この論文のテーマはそこにある。行為が道徳的価値を持つという場合、行為よりもむしろその動機が重要になる。その動機とはどのようなものであるのか。それがこの論文のテーマである。

本論に入る前に、ひとつ言っておきたいことがある。これから扱うことになる"善"とは道徳的な意味での善である、ということである。そして、先ほどから何度も使っている"正しい"という言葉も同じ意味で考えておいて欲しい。善や正しいという言葉は異なった多くの意味で使われるので、この論文では倫理的な意味で用いることを、ここに断っておく。

こんな事を書いていた子。
十年経った今、これに愛=理解を加えると何か道が見えるかもしれないと思ったんです。
でも、「人間を目的として扱う」ってそういう事だったのかも知れませんね、今思えば。

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